61年前の7月14日・15日、北海道(68市町村)は太平洋上の空母からの米軍機による爆撃や沿岸に接近した戦艦から艦砲射撃で甚大な被害を被りました。
シリーズ6回目は、記録誌「釧路空襲」(釧路戦災記録会発行)の編集を担当した金子幹夫さん(道東勤医協友の会員)に記録誌刊行の経過や空襲の惨禍について聞きました。
釧路空襲 @
戦争では国も国民も守れない
手弁当の編集作業
全国各地の空襲と同じく、北海道空襲も軍・民みさかいのない無差別攻撃でした。来襲した米軍機の総数は1270機、被害は死者1128名、重軽傷者918名、焼失破壊戸数6700戸、罹災総数は33400名(松本尚志氏調査)でした。
釧路空襲は、2日間延べ141機の攻撃で死者192名、重軽傷者273名、焼失・倒壊戸数は1373戸に上る大きな被害をもたらしました。
昭和45年、作家の早乙女勝元さんなどを筆頭に全国各地で空襲を記録する運動が起こったことも契機に、釧路でも空襲の実態をまとめようと釧路戦災記録会を昭和47年の12月に発足しました。最初の頃、有志の4人、5人で手弁当で走り回りましたね。 死亡者、負傷者、被災住宅戸数などが、警察と市役所と消防で数が違う、ということなど苦労しました。「これが本当だ」とつかむまで時間がかかりましたが、12月から始めて連日のように夜中まで議論をしながら翌年7月までにまとめることが出来ました。
空襲の惨害を語る金子幹夫さん
復員して知った家族の死
「釧路空襲」では、「被害記録」などに加えて、空襲を受けた市民や家族を失った方々からの聞き取りも行いました。戦後20年以上、経過しているにもかかわらず克明な記憶がつづられています。中でも「復員して知る家族の死」と題するKさんの語りは、衝撃的です。
Kさんは、昭和17年、軍属として南方戦線で軍の修理工場に配属されていました。復員は昭和21年4月です。釧路駅まで妹さん夫婦が迎えに来てくれていて元気なことを喜び合いました。張り切って家へ入ったのですが、喜んで迎えてくれるはずの両親が見当たりません。変だな?と思い、父さんや母さんはどうした?と聞くと、妹の旦那さんが、黙って仏壇を指差しました。『父さんも母さんもその中にいる。それにF(11歳・弟)、S(16歳・弟)、M(23歳・妹)も一緒なんだ。父さんは病気で死んだんだけど母さんと妹たちは空襲で死んだんだ』と初めて打ち明けられました。Kさんは仏壇の前で男泣きに泣きました。妹夫婦と生き残った弟さん(15歳)の4人がまた一緒になって泣きました。4人の飛び散った肉片は警防団や隣組の人たちが集めてくれたそうですが、火葬にしてみたら、骨は骨箱に1つよりなかったそうです。
このような話が多くの市民の協力で記録にとどめることが出来ました。戦争では国も国民も守ることは出来ないという思いを強くします。
「釧路空襲」は全道で最初の戦災記録としてその後の各地での空襲の記録・戦災の掘り起こし運動につながりました。
釧路空襲 A
戦争の記憶は日々新たに
釧路空襲受難詩曲
無名市民
風の中に
星くずの空の高みに
わたしはいる わたしたちはいる
あの苦しみのはるかな
日々よ
街は戦火に焼かれ こわれた橋を
燃える髪の死者たちが渡っていく
もげた足や 死んだ仔犬をだいて
思い出しておくれ
あの悲しみの日々を
わたしはいる
黒土の水のしめりに
一輪の花の命に
平和な うるわしい釧路に
わたしは わたしたちは眠る
「釧路空襲受難詩曲」は昭和51年、釧路開発局の新井章夫さんが作詞をした「無名市民」と題する詩に、釧路戦災記録会が『釧路空襲 改訂版』を発刊するにあたり、私が曲をつけたものです。音楽的にはオラトリオの形式をとっています。
今月号は釧路空襲の2回目です。61年前、釧路市黒金町で米機の空襲にさらされた佐藤昌之さん(釧路九条の会世話人・北海道教育大学名誉教授)を訪ねました。
佐藤さんは、釧路空襲鎮魂曲「釧路空襲受難詩曲・無名市民」(作詞 新井章夫)の作曲を手がけました。
釧路九条の会世話人
佐 藤 昌 之 さん
(北海道教育大学名誉教授)
戦争への強烈な嫌悪感
空襲で爆破された釧路工機部
(後の国鉄釧路工場)
「釧路空襲」より
「釧路九条の会」結成の記者会見で私は、「中学2年生の時、釧路空襲を体験し、戦争に対し強烈な嫌悪感を持っています」と話しました。当時、釧路中学の全校生徒は250人でしたが、実は空襲に遭遇したのはわずか十数人なのです。ほとんどの生徒は、近隣の農家の手伝いや計根別飛行場の整備にかり出されていたのですが、私は学校の柔道で怪我をしたため、酪農工場(東釧路)での軽作業となったため釧路に残ったのです。
米機は空母からの来襲で、爆弾を落としては母艦に還りまた襲って来るという攻撃です。
父が国鉄職員で、今の合同庁舎あたりにあった釧路工機部(後の国鉄釧路工場)の側に住んでいました。空襲警報が鳴ってすぐ、弟と妹を防空壕に押し込んだ後、父が出張だったために母親と二人で家を火災から守るために残りました。市内で最初に火が上がったのは、旭小学校でした。旭小学校は当時たいへん大きな建物であったため、兵舎と間違えられたようです。続いて釧路工機部も激しく攻撃され爆破されました。後にアメリカ軍の資料から釧路空襲ではロケット弾も使われたことがわかりました。
あの空襲から61年がたちますが、不思議なことに私の戦争の記憶は、日々新たになって行きます。7月14日は、晴れた静かな日でした。突然悪魔がきたという感じで、飛行機が爆弾を落としていった。遺体収容だ!の声で、助けてあげようと思って行くと、頭髪のついた頭蓋骨や足首が散らばっています。そこで暮らしていた1家5人の骨や肉片を集めましたが二斗樽ひとつに満たない量でした。戦争というものは、そういうものです。